Category : 三木市

こちらは金物資料館で展示されていた【和釘:やまとくぎ】です。

和釘 和釘

Wikipeidaによると、和釘とは…

●洋釘が日本に伝わるまでは、日本の釘は全て和釘だったが、やがて洋釘が一般となり、和釘はほぼ消滅した。

●古式日本建築、仏像や和船などの新造や修理などで、その耐久性の高さから現在でも使われることがある。

…とあります。

 

現在の一般的な釘のように丸くなく、四角いのが特徴です。

和釘は、1本1本を火造り鍛造で造られており、現在の丸釘・タッカー釘とは根本的に違うということです。

 

こちらは三木の伽耶院が昭和60年に解体・修復された際に出土した和釘と、その保管されていたを釘使用して、伝統ある播州三木打刃物に造り上げたものです。

この和釘は、約390年前に砂鉄を原材料として「古代たたら製鉄法」によって造られたもので、大変貴重なものだそうです。

伽耶院和釘からの道具

 

 約390年前の釘がこうして残っているなんて、和釘ってとても丈夫なんですね~。

少し前に、三木市上の丸にある金物資料館と三木城跡に行ってきました。

 

金物資料館には、金物に関する古い資料や金属製品などが展示されています。

金物資料館

 

他には、三木市観光協会が作成された金物ストラップを展示・販売するコーナーもあります。

かんなどん(鉋)、かわいくないですか?

IMG_42701

 

三木の鍛冶用具と製品624点が文化庁の登録有形民俗文化財に登録されたということで、そちらも展示されていました。

兵庫県で初・金物業界でも日本初だそうです。すごいですね!!

三木の鍛冶道具・製品が登録有形民族文化財に登録されました。

 

 

すぐ横が三木城跡になるのですが、

別所長治公の像や、別所長治の辞世の歌碑などがあります。

別所長治公像 別所長治辞世の歌碑   IMG_4283

三木城は、室町時代の十五世紀後半に別所則治によって築かれたお城です。

天正6年(1578)、五代目城主別所長治のとき、織田信長の家臣羽柴秀吉の軍に包囲され1年8か月に及ぶ兵糧攻めに遭います 。この戦いは三木合戦といわれ、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として有名です。兵糧攻めによる飢えから、籠城した兵士が壁土の藁を食べたという言い伝えもあります。

天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、籠城した人々の命が助けられました。

秀吉は焼き討ちなども採り入れていたため、町は焼野原となりました。秀吉は、中国攻めの拠点として三木の城を考えたため、焼け野原となった町の復興を手がけます。赦免の制札で逃げ延びていた人々を町に呼び戻し、復興が始まり、各地から大工職人が集まり、彼らの道具を作る鍛冶職人たちも数を増やしていきました。

という様なお話もあります。

「金物のまち三木」と呼ばれるようになった理由のひとつかもしれませんね。

 

三木城跡は高台にあるので、とても眺めがよく、三木市街を一望できます。

鉄橋を渡る神戸電鉄も見えますよ。

 

金物資料館ではたくさん写真を撮らせていただいたので、何回かに分けてご紹介しようと思います♪