Category : 金物資料館

こちらは三木金物資料館の敷地内にある、村のかじや記念碑です。

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「村のかじや」は、鍛冶屋さんの心意気や仕事ぶりを歌った童謡です。

金物資料館の入り口を抜けると、この歌の音色のチャイムが流れるようになっています。

 

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♪ しばしも休まず 槌うつ響き

飛び散る 火花よ 走る 湯玉

鞴(ふいご)の風さえ 息をもつかず

仕事に 精出す 村のかじや

 

この歌の場所・作詞・作曲は詳しくはわかっておらず不明です。

昭和52年には文部省の小学校学習指導要領の共通教材から削除され、それ以後、教科書出版社の音楽教科書から消えはじめ、昭和60年にはすべての教科書から完全に消滅しました。

この記念碑は、「この歌は我々の心意気や仕事ぶりを歌ったものだから、後世に残し、歌い継いで三木の金物と一緒に伝えていきたい」という鍛冶屋さんたち思いから設置されたものです。

 

ごく一部の駅のホームで、電車の通過・到着のメロディとしても使用されているそうです。

 

どんなメロディーか気になる方はぜひ金物資料館に行ってみてくださいね~♪

 

 

 

こちらは金物資料館で展示されていた【和釘:やまとくぎ】です。

和釘 和釘

Wikipeidaによると、和釘とは…

●洋釘が日本に伝わるまでは、日本の釘は全て和釘だったが、やがて洋釘が一般となり、和釘はほぼ消滅した。

●古式日本建築、仏像や和船などの新造や修理などで、その耐久性の高さから現在でも使われることがある。

…とあります。

 

現在の一般的な釘のように丸くなく、四角いのが特徴です。

和釘は、1本1本を火造り鍛造で造られており、現在の丸釘・タッカー釘とは根本的に違うということです。

 

こちらは三木の伽耶院が昭和60年に解体・修復された際に出土した和釘と、その保管されていたを釘使用して、伝統ある播州三木打刃物に造り上げたものです。

この和釘は、約390年前に砂鉄を原材料として「古代たたら製鉄法」によって造られたもので、大変貴重なものだそうです。

伽耶院和釘からの道具

 

 約390年前の釘がこうして残っているなんて、和釘ってとても丈夫なんですね~。

少し前に、三木市上の丸にある金物資料館と三木城跡に行ってきました。

 

金物資料館には、金物に関する古い資料や金属製品などが展示されています。

金物資料館

 

他には、三木市観光協会が作成された金物ストラップを展示・販売するコーナーもあります。

かんなどん(鉋)、かわいくないですか?

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三木の鍛冶用具と製品624点が文化庁の登録有形民俗文化財に登録されたということで、そちらも展示されていました。

兵庫県で初・金物業界でも日本初だそうです。すごいですね!!

三木の鍛冶道具・製品が登録有形民族文化財に登録されました。

 

 

すぐ横が三木城跡になるのですが、

別所長治公の像や、別所長治の辞世の歌碑などがあります。

別所長治公像 別所長治辞世の歌碑   IMG_4283

三木城は、室町時代の十五世紀後半に別所則治によって築かれたお城です。

天正6年(1578)、五代目城主別所長治のとき、織田信長の家臣羽柴秀吉の軍に包囲され1年8か月に及ぶ兵糧攻めに遭います 。この戦いは三木合戦といわれ、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として有名です。兵糧攻めによる飢えから、籠城した兵士が壁土の藁を食べたという言い伝えもあります。

天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、籠城した人々の命が助けられました。

秀吉は焼き討ちなども採り入れていたため、町は焼野原となりました。秀吉は、中国攻めの拠点として三木の城を考えたため、焼け野原となった町の復興を手がけます。赦免の制札で逃げ延びていた人々を町に呼び戻し、復興が始まり、各地から大工職人が集まり、彼らの道具を作る鍛冶職人たちも数を増やしていきました。

という様なお話もあります。

「金物のまち三木」と呼ばれるようになった理由のひとつかもしれませんね。

 

三木城跡は高台にあるので、とても眺めがよく、三木市街を一望できます。

鉄橋を渡る神戸電鉄も見えますよ。

 

金物資料館ではたくさん写真を撮らせていただいたので、何回かに分けてご紹介しようと思います♪